英雄が誕生する時・・・。 第2回

(初出:第51号 01.6.20)

無知の男が上京...

今まで両親と離れて生活した事は皆無に等しかった。上京した俺は全てを捨てる覚悟だった。芸能界という業界は成りたいからって成れる程そんな甘い世界じゃない。親戚の『手に職をつけながら..』というアドバイス通り料理の世界を選んだ。早速仕事場へ向かう。ところが「東京駅着いたら連絡して!」と言われたのに降りた所が「ウ・エ・ノ」。そうそうしかも「ボランティア」とか何とかで人が寄ってきて署名をみると皆1000円と書いてたから青かった俺1000円寄付。その金何に使ってんねん?上京物語は波乱含みだ。

一人暮らし初心者です

店の親方であるYさんは優しかった。「金ないなら貸してやる。その時は言えよ!」と。俺は田舎者だ。気持ちだけでも嬉しかったよ。その田舎者に対しての歓迎は、すごかったよ。丁度昼休み時に着いたのでうどん頂きながらの質問攻めに、喋ろうか、食べようか迷い、その姿見て皆大笑い。「店を出したい。」と心にもない事言ってたっけ。それからすぐ上の先輩Sさんと帰り、一緒の社宅だということから案内してもらう。定期の買い方、電車に乗る方向・・・とにかく教えてくれた。都内での一人暮らしは楽しくて仕方なかった。これまで殆ど家から離れて生活した事ないから『果たして生活できるの?しかも海を渡った都会で...。』と不安もあった。2日間はSさんの部屋に泊まり、東京見物や食事しながら過ごした。10日後に荷物が届く..。それ迄Sさんの布団を借りて寝てた。自由だったね。毎晩仕事終ってから部屋の前を散歩したり走ったりしてた。休日は電車に乗り、色んな所を探検したね。コインランドリー迄10分の距離を歩いて洗濯して、部屋で干すんだ。箱入り息子が自立してる光景を確認してた。

レッスンスタート!

間もなく、レッスンが始まった。1クラス20人はいた。初めに知り合ったO君は、元気のいい人だった。地方の大学蹴ってまで芸能界目指すと帰京したのだから。俺には真似出来ません!しかし一月後にはパッタリ。以来姿を見せることはなかった。元気ならいいけど...。毎週1回のレッスンを通ってくうちに人とも話すことが多くなり、レッスンを楽しんでる部分が確かにあった。発声、エチュード、マイム...をやったり。無知ながら、柔軟、発声が大事なのはなんとなく理解してた。

運命的な出会い

ここで特筆すべき出会いがあった。今では劇団員として一緒に活動している田中さんだ。向こうは当時、俺の印象を『元気がいい子。子役からやってる人』だと思っていたそうだ。最近になってそう言われた。俺はというと、『常識ある社会人だな』と思っていた。何故ならある日のレッスンで休憩中トイレでバッタリ会った時、鏡に映ってる俺に向かい挨拶してきたから。でもお互い最初はそれだけ。

エピソードのオンパレード

ここから区別して進行して行きます。さて、板前やりながら芸能界目指す...言わば二足のわらじで始まった戦い。正直大変さを知った。全くのド素人だったから、包丁で刻むことから慣れなきゃ先進めない。親方を始め皆んな色々アドバイスしてくれた。中でもHさんは相撲界で活躍した力士の息子さんで、熱心に教えてくれた。俺は実は身長伸びていたら中学卒業してから力士になろうと本気で思っていたから、意外な所で相撲と関わりのある人と出会ったのは嬉しかった。でも仕事は失敗の連続だ。そりゃそうなんだけど、指は何十回も切ったし、デカイ冷蔵庫の中で滑ってコケたり、下駄の鼻緒が外れて仕方なく脱いで裸足で厨房を走り回ったり。すき焼きのたれとそばダシ間違えて出してしまったり、和食と洋食別っこでやってたんだけど、ガスの元栓閉めるの和食はOKだったんだけど洋食はまだとは知らず閉めてしまったり...。最も笑えるのは、甘鯛3本おろすのに2時間も費やしたこと(店が休みで良かった)。旭川帰れるよ。本当今なら笑えるよね。お陰で包丁は上手くなったけどね、それなりに。俺は最近やっと料理を部屋で作れるようになった人だから...。そんな俺は皆を和ませた。和食と洋食仲悪かったから、洋食の人と飲みに行った時に「橋渡し役となれ。」と言われたこともあった。俺は芸能界と結びつけて全てをいい方向に解釈してた。ムードメーカー、ラッキーボーイのような存在なんだろうね。モデルやっている人がホールに入って、よく声掛けてくれた。身長が172cmだったかな、本当奇麗な女性だったな。「どっちが先に辞めるか競争だね。」とからかってきたり、一度2人で話しをしたかったな。年末の忘年会は滝川の加入で盛り上がった。ビール瓶片手に歌った。サラリーマンの時と同様アピールしてた。まだ芸能人になる話しはしてない。クビになるって!そんなこと言ったら。

珍しい子

2月、Hさんの披露宴豪華だったね。目黒雅◯園、デカイよ。そこで俺は『好きな人みつかったらここで式挙げよう。』とイメージした。Hさんは1月よりちゃんこ店をオープンした。俺は目立たないようにしてた。周りは力士ばっかでやはりデカイ。しかし先輩が「滝川前出て歌って来い!」と「いいんですか?」と言いながら出たくて仕方なかった。女の子4人歌ってて間奏中に「日本橋店の・・滝川です。」とマイクで話した。女の子も「はぁ?」でも笑いの渦が巻く。印象に残ってるのが式後挨拶している時に、仲人してた理事長が「歌上手いねぇ。君は今時珍しい子だねぇ。」と嬉しかった。俺が印象に残ったことが。Hさんもその後「何回もお前のこと話してたよ。」と。

北陸の男襲来!!4ヵ月共同・・。

北陸出身の男が上京した時何かが変わった。97年春あいつがやって来た。部屋空いていないので共同生活。1〜2週間は話ししたり笑顔だった。がそれ以降帰る時間ずらしたり、意味もなく朝5:00過ぎに外へ出てったり部屋のゴミは片付けねぇし、消灯が遅くなった時、大きなため息「フーっ!!」(眠れねぇよ)みたいな態度とるようになってやがて仕事場でも周りの人からも「あの子何なの?」って俺も聞きたい。7/19部屋移る日にあいつ何て言ったと思う?「先輩、シャワーだけ借りに来ます。」だって、『ふざけんなー』と思ったけど、注意を誰からもされないことを可哀相な奴と思った。7/28親方に「芝居をやるから」と辞めること伝え色々言われた。上京する時一切触れなかったから。でも辛かった。言えば半端な気持ちでやることが公になるし、だから教われないんじゃないかとか考えてたから。あいつがいたから辞めたんじゃない。気持ちに嘘つけなかった。二足のわらじは駄目だということも体験して解った。社宅出なきゃならない。そう前もって夏休み入った時、職場探してた。俺の上京する時の条件『新宿にレッスンがあるから近い所しかも社宅で、手に職をつけながらだから板前しかも食事付き。』だった。スンナリクリアしてたんだけどね。

人・人・ひと歌舞伎町!

さて、今回はフロムエーみてた。すると『月30万、引っ越し代無料』の広告に惑わされ、歌舞伎町に住み、カラオケパブでウエイターになった。しかし、住んでてすぐ違和感があった。前の家は山手通り沿いにあり、車通りは激しかったが何とか過ごせた。が、歌舞伎町は夏の蒸し暑いのもあるが外出ると人がうじゃうじゃしてて一日中、帰っても落ち着かない。仕事はというと客引きばっかだった。客入ってもタチの悪い奴が多くて、ケンカも絶えなかった。後で聞くと昔『ぼったくりバー』だったらしい...。やくざも出入りしてた。『やばい!』。夕方5時〜朝5時迄本当油断できない状況だった。レッスンが息抜きだった。その店は5Fで6,7Fに居酒屋の『◯将』があった。外で呼び込みしてたチョウティンさんがよく話しかけてくれた。遊び感覚で誰彼構わず俺は客引きしてた。演技してるように。俺はどんな仕事でもその役に成るつもりでまたそれが将来こういう役をもらった時に生きると考えてたから...。

脱出!

店が潰れる直前は部屋探しだった。恐かった。まず脱出だった。9/7奇しくも上京と同じ目に今の部屋に引っ越した。歌舞伎町から白昼堂々と。めしは2食出たが数日後遂に30店舗閉店。暴力団の偉い奴が捕まった。テレビや新聞でも報じられた。俺は「終った」と思った。一応3週間毎日働いていたから無休、無給で関係者だったということになる。幸い事情聴取はされなかったから、芸能人としてひび入らなくて良かった。間一髪だった。楽しかったこともあったけど今考えても恐い。若き日の想い出。

よく食べる人はよく仕事できる!?

チョウティンさんの強い誘いにより7Fで居酒屋勤務が97年9月よりスタートした。どの仕事よりも楽しかったと今でも思う。客を楽しませる。美味しくて安い料理を食べてもらう。店長も俺の賄だけ3人前をいつも用意してくれた。それなりに頑張らないとね。板前の時も弁当の残りを入れ物ごと持って帰って朝めしにしてたこともあった。いつしかよく食う男として次長も「50年生きててはじめてみたよ。」と俺の事。本当かよ!?って。チョウさん実はミャンマー人なんだ。でも日本語は一番上手い。同じ国の人に仕事を紹介したりして『この人すごい』と思わせた一人でもあった。準備してる時よく「戦争のない世界にしたいね。」と話してた。俺のホールは楽しいと思う。休みの時なんか「休みなんですか?」と客から注文?もあったとか。従業員も殆どミャンマー人で、その言葉で話したり歌ったりすると喜んでた。勿論客にも。人気者だった。その調子で芸能界も駆け抜けたい勢いだ。忘年会も俺の加入により大盛況だった。宴会は大好きだった(飲むと国なんて関係ないと思った)。客に仕事しながら「皆ノッてるかい?」と呼びかけ、ときには走ってオーダー取りに行ったり、スリ足で下げ物下げたり動いて喋ってもう何でもやったね。客から酔ってるのもあるだろうけど「本当に楽しかったです。また来ますんで辞めないでね。」と言われたこともあった。

養成所で目覚めたこと

さて本職を少し。97年の冬だったと思うが田中さんが店に来て「劇団興したい、来年の3月に動きたい。」と持ちかけた時があった。レッスンの話しになるが、入って3ヵ月くらいまでは気合い入ってたよ。勿論それ以降も。しかし、周りの連中は一体「何しに来てるの?」って言いたい。売れたいくせに「どうぞ先やって下さい。」とか何で譲るの?この業界に限らずとにかく自分を自分で売り込まなきゃならない。俺はやり過ぎるくらい率先してやったし、喜んでやってた。なのに何でこんな人たちと一緒なの?と重複するが、本当楽しかった。息抜きだった。はじめは。そのうちおい!ちょっと待てよ?自分のやりたいことを息抜きにしてどこで勝負するんだよ?と自問自答するようになった。色んな人と出会った。でも戦場だ。だんだんその疑問が増えてきた。「この先生うるさいから」と帰ってしまう奴。クラス替わって先生が違えば戻ってくるとか、後、こんな奴もいた。「毎週通わなくても見てる人はみてるからそのうち..。」と何で他力本願なの?余裕があるようで恐らく何も考えていないんだろうな。あっぱれだよ。益々そんな人たちそしてこんな養成所で頑張るのも馬鹿々々しくなった。審査会が年2回あるらしい。今になってはどうでもいいことだがこの年の冬は燃えてた。後で触れるが近くに引っ越してきたばかりの田中さんとも夜公園で一緒に練習してた。お巡りさんに注意されたけど。その養成所、ランクがあって昇格したり、下降したりする。何も知らなかった俺は頑張るも落ちた。『何であいつが?』と思う奴が上がったり益々解かんなくなった。卒業すればプロダクション?何それ?現に10年いても養成所の人が何百人といる(?)。俺は『芸能界』で活躍したいから頑張るのだ。

己の仕事だろ!

◯将は翌年辞めた。本当に有難うと言いたい。突然だったからバイト探しが大変だった。実際レッスンは通ってたが劇団に向けては構想の段階だった。2度目の審査会が迫る。俺はこれで駄目なら養成所を辞めようと思った。後で聞いた話しだが「(養成所の)劇団の公演に出ればクラス上がる。」ふざけんなよ!ってその舞台が金のかかる話しでチケット、役によって異なるが数十枚のチケットを1枚3000円で売らなきゃならない。言わばチケットノルマってやつ。入った当初は迷った。売れなきゃ自腹だ。とか不安だ。そうやって養成所はめし食ってるんだ。俺らは経験にはなっても利益がないってわけだ。実際何百人と入れては仕事はエキストラだ。何がなんでも結果を出したかった。やる気のある奴とどうでもいい奴の差をみせたかった。が、2人芝居で俺の相手役がとんでもない奴だった。レッスンもたまに来て台詞入れてなくて「すみません。」「打ち合わせしよう」と言ったら「友達と帰るんで..。」とてめえの将来かかってるんだ!腹立ったけど黙って帰った。結果どうあれもうここには何もない。と思って臨んだ当日、田中さんのバイト先の女の子に借りたスカート履いて頑張った。というのは俺の役、台本では女だった。だからレッスンの先生に「女でやらせて下さい!!」と頼んだぐらいだった。2度目の女装だった。メイクも毎日部屋で塗ってそのまま寝た時もあった。周りはバカにしている奴らも何人かいたが、俺の本気に気付いた奴はまともな考えを持ってる奴だ。実は体育館や公園で田中さんに稽古手伝ってもらった。本当助かった。あの時のレベルなりに。緊張もしてなかった。もう昔の俺ではなかった。しかし昇格ならず、精一杯やってダメなら納得も行くが(相手には何も言えない。人生でダメになっちゃうよ。)先生が質問に対し「上のクラスとの違いは大したことはない。来る奴は来るし、来ない奴は..。」と聞いた時、『もういいや』と思った。しかし一体何をやろうか?この日にもう一つ仕事の打ち合わせがあった。自主映画だった。主催者は佐藤さんなんと道産子だ。養成所では習っても実践の場が無かった。当時とある情報誌から田中さんが探してくれたものだった。役者やってて一番楽しいと思うのは演じる事。

実践の場求め...。

一月無職だった。警備のバイトを3/26決めたがわずか7勤務で6/15で辞めた。4/8から洗車の仕事を始めることになった。23歳6ヵ月。最近の2001年3/31で辞めたばかりだが丸3年やっていたことになる。舞台活動を始めた時期でそう簡単に辞めて職探しとは行かなかったのもある。長かったせいか余り書きたくない。当時の店の印象は、覇気がないという感じだった。俺は以前から職場でも養成所でも必要以上に友達つくらないという信念があった。喋る時は明るいのに接客になると暗い人が多かった。明暗の事言ってるわけではない。客と同じテンションでやってたら『何だろう?この店』ってことになりかねない。相手にもよるけど、少なくとも接客業だからと念を押す。ポジションを作ろうとしてたのかも...。辞めることを何人かの客に伝えると「寂しいね。」って声を聞いて悲しくなる場面もあった。明るく元気良くが重要な仕事とも言える。

かけ持ちの大変さ、そこから出会い

98年居酒屋でもかけ持ちでバイト始めることにした。週3日のバイトじゃ少しきつかったから。金の方。2つのバイトで共通して言えるのはよく食べさせてもらった。よく食う男は子供の頃から変わらないが、背は極めて低い。記録の中で年末13連チャンをやったことがある。仲々やれないよ。板前のNさんにはよく御馳走になった。帰り近くの定食屋で。「将来店を出したい」と1年後辞めたが「和と同じく、色々経験しておかないと..。」と共感するものがあった。近くで働いているというが。いつか行ってみたい。この店でもそうそう髪伸ばしていたせいか女の子に見間違えられることが多く、客からチップをもらったこともあった。どのバイトでも1回以上はあった。本当有難う。このお礼は近い将来返すからね。俺は1年ちょっとで辞めたがお笑いのA司に出会ったことは大きかった。殆ど一緒には仕事していないが「地元帰る。」と言い出して俺は引き止めた。彼のライブは殆ど見に行っている。ファン?いや何か期待させるもの感じたんだね。「せっかく上京したんだからもっと頑張ろう。」と言ってから皆さんも御存知の通り、日曜の11時放送の『◯波少年』に出ていた。俺の言ったことが届いたかどうかは別にしても活躍は嬉しいし、俺も負けてられん。と。店は後半週2回しか出てないから(深夜のみ)余り客に知られてないけど、女の子という印象はきっと消えてないと思うが、本当に有難う。

読み手に伝わりにくいこと多々ございますが、俺はせっかく時間が出来たので更に執筆(?)していきます。バイトのことは以上で。俺がこれまでやってきた事果たしてどんな結果をもたらすか!?俺は自分を応援します!
 
 



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